昭和40年11月11日 夜の御理解
「夢でも仇や疎かに、まっ見るな」と、教えられるくらいでございますから、信心さして頂く者は、休ませて頂く時お夢でも、頂くという気持ちにならなければならん、夢を見ると、体が疲れると、お夢を見せて頂くという事になるとその中に、神様の働きを頂くから、疲れるどころではなくて、神様の世界の一部を、覗かしてもらうことが出来る、お夢の中に、日々、指針すら、夢の中に教えて下さる、ね。
例えば「夢を見る」と言うと、言うのと、「見せて頂く」と言うのは、それほどに違う、体でも同じこと、ね、肉体を持っとりますから、使えばやっぱり疲労を感ずるけれども、ね、それをお許しを頂いて使わせて頂くと、自分の、この五体というものが、健康であればあるほどそれが、なんですけれども。「自分が働きよる」「自分が」「自分の体」と、そこに私は、例えば夢の、夢一つですらが、頂くのと、「見る」のと「見せて頂く」のが違うようにです、肉体も同じ事だとこう思う、ね、
信心はもうここのところと、ここのところが、言わば違うのである、ね、してみると、なら先ほど佐田さんから、腰を痛めたというお届けがあったんですけれども、ね。自分の体のごとを思うて、言わば、行き成りに使っておるところに、私はそういう、「あいたっ」と思うようなことやら、いわゆる腰痛を感じるような事になるのでございますから、本当に、そこんところにお詫びがいる。
本当に自分の体んごと思うて、無茶苦茶に、健康に任せて使うておりましたこと、ね、使うたことだけでももう何十年間という間はそうであったこと、何十年間のお詫びが、何十年間のお礼が、あ、分からしてもらう、気付かしてもらう、ね、そこに私は、次のおかげというのが約束される。信心というのは、修養とか道徳とかというのとは違う、もうそこなんだ、ね、親には孝行せんならん、には注意をせんならんと。
まあ、道徳を持って、するとそういう事になりますけれども、信心さして頂いておるとです、ね、「幼少の時は忘れて親に不幸のこと」と、お戒め下さるようにです、本当に幼少の事を思うたら、親に心配をかけたり、ね。いわゆる、出来ない、いや、親に喜んでもらいたくなってくる、喜んでもらわなおれなくなってくる。孝行せんならんからするのじゃない、孝行さしてもらわなければおられない。
というところに、違い、信心の違いがある、ここをも思うたら、(ここをみたりしまつってみるこおもうのかれきにでもおく?)といったような、私共は、その、習いましたですよね。道徳的な、例えば修身家では、そんな風に教えてあります、だからそうせんならんもんだ、というところにです、まあ、ただ、それだけのこと、ね、けども本当にここをも思えば思うほど、お国の御用にもです、社会の上にも。
その恩に対して私共の働きというものが報いる、さして頂かなければ相すまん、ということになって来る時にです、言わば「そうする」というのと「させて頂く」というところにです、いわゆる私おかげが伏せてあるとこう思う、ね。これはもう本当にそうなんですよ、ね、ですから本当に「さぁ今日もいっちょ働くぞ」というのと「働かせて頂く」というのはもう大変な違いなんですよ、それが分かるのが信心なんですよ、ね、
働かせて頂くのだからその実感がです、本当に実感その、働かせて頂くという実感がです、ね、あるから実意丁寧にならなければおられんのですよ、頂くのですから、ね。信心でおかげを頂くというのは、言わば「おかげの有るも無きも我が心」とこう言われるように、その自分の心のちょっとしたその使い方、ね、働きよったのが働かせて頂く、「はぁほんに働かせて頂きよるとたい」と、「動きよるごたるけど動かして頂きよるとたい」というところに感謝がある、頂けれる。
その感謝が次のおかげにまた広がっていくのですからね、。いういと簡単なことなんです信心さして頂ければ先ず、そんな事を教えて頂くのでございますけれども、はたして口にはうんなら「働かせて頂きよる、今日もなんなんさして頂きます」と言いながら、はたして頂いとるだろうか?検討してみなきゃいけませんですね、そして例えば私も昨夜休ませて頂くのは3時でございました、ですからもう今朝もう目が痛いんです(?)さして頂いて、頂いてないという事に気付くですね、ね、で目の底が痛いと、ね。
本当に、神様に見せて頂きよるということをです、改めて神様にお礼を申さしてもらい、ね、また自分が勝手に使いよることをです、お詫びさしてもらい、お礼を申さして頂く、そこから、おかげを頂く事も間違いないです、もう一つ、あもう、これはまあ、お道の信心の一つの、まあぁ、基礎的なことですけれどもです、ね。「する」と「させて頂く」というところにです。
確かに、いわゆるおかげが違う、そこにまた修養と信仰の、違いがあるということをです、もう日々の体験によって一つ分からせて頂き、今日も、こういう忙しい中に、お使い回しを頂いて、なら許されて今日もこうあったということ。そこに私は、神恩報謝の生活が、出来れる原動力が、明日の日のための、エネルギーが、養われる、頂けれるという風に思うですね、どうぞ、あんまり、初歩的なことのようですけれども、その初歩的なことが、実際は出けていないんですね。
どうぞ。